四十九日2009/04/07 04:42

本当の四十九日は今度の金曜だけれども、日曜日に四十九日の法要と納骨をした。
我が家の寺、墓地は浅草にある。母の両親の出身の栃木の寺を本拠としているお坊さんが住職をしている。母の亡き両親含めてその寺の檀家。
とは言っても母の両親の家の墓地は別の場所にあるので、この寺の敷地の中の墓は、一族ではうちだけ。
墓には、19年前に亡くなった父だけが入っていた。そしてそこに母を収めた。
場所がら、墓碑銘を見ると東京大空襲で亡くなったと思われる人も多くいる。中には、一つの家で5人以上、童子童女の戒名が刻んであるのは幼子だった故だろう。

母の通夜も告別式もこのお寺。通夜に向かう時、母一人残して家に帰るのかと心苦しく思った。
けれど、通夜を行った本堂は暖かくとても居心地がよく、ここなら一晩、一人にしてもいいだろうと思った。
うちのお寺で通夜、葬儀とも営むことにしてよかったと思った。

さて、四十九日の法要が終わり、母を墓に収める。
墓の蓋を開け、父の骨壺の横に母をおろす。父との対面は19年ぶり。
「ここにいたんだね」
と、思わず口に出そうになった。

土曜日の夜、母の骨壺にむかってつぶやいた。
「家にいられるのも、今晩が最後だねぇ」と。
父の骨壺を見た時に、ここがこれからの母の居場所なのかもしれないと思った。
僕自身のことを顧みると、今までは、自分が死んだら大地に撒くなり海に撒くなり河に流すなりしてもらって、自然に返して食物連鎖の中に戻りたいと思っていた。
けれど、新しい骨壺を収めたばかりの1メートル四方程度の空間に地べたに這いつくばって頭を突っ込んだ時、居心地よさげにち〜んと墓石の下の空間に鎮座している二人が見えた。
ここに、こういう所に収まるのが一番自然のかもしれないとも思った。

家に戻ってから、母の遺髪を入れたそのお寺のお守りを長女に渡した。
遺髪を入れたお守りは長女と次女に。
次女にはとうに渡してあったのだけれど、東北で学生生活をしている長女には渡し損なっていた。
おばあちゃん子は三文安いというけれど、あいつらは一両以上安い。
それだけ安くしちゃったんだから、これかも見守ってやってくれよと願い、また母自身も孫が可愛くて仕方なかったようだから、下手な形見を渡すよりも母からしても望む所なんじゃないかな。


父が亡くなった時、忌引きの一週間は時間の許す限りひたすら曲を書いた。
そうすることで、まだ若かった僕は父の死から目を背けて逃げようとした。
現実を受け容れがたく作曲に逃げた。
ひたすらに逃げたから、書いている時に涙はあまり出なかったように記憶している。

今回も、亡くなった日からよく曲を書いた。
けれど、父の時とは違ったように思う。
書きながら涙でモニターは見えなくなり、肩越しに投げ捨てるティッシュは床を埋めた。
「明日は棺に入れるから今のうちに横で泣いておけ」「きょうがお袋に触れられる最後の晩だからな」等と子ども達に言い、そして僕もその部屋で寝たりもした。
曲を書くという作業、前と違って今度は現実から逃げるためではなく、ありのまま‥‥、素で受け容れる行為だったのかもしれない。

父が亡くなったのは僕が30才の時。父は60才だった。
今、僕は49才。母は75才で旅立った。
この19年の違い、とても大きかったんだろうな。
父と母の亡くなった年齢の差もあるだろう。
僕自身の年齢もあるだろう。
今まで、自分も父と同じように60才くらいが寿命かなとどこかで思っていたけれど、母くらいの年齢まで‥‥、二人の娘が僕の死を穏やかに受け容れることが出来るようになる位まで生きていたいと、70を越えるくらいまでは生きていたいと本心から初めて思った。

ところでお袋さん‥‥
あなたが亡くなった時に書いていた曲、さっき仕上がったよ。
明るくて華やかな曲だよ。

思った2009/03/18 02:40

大相撲の初場所が終わったあたりから意識の混濁が進み、目はあいていてもどこまで意識があるのだろうという目をすることが次第に多くなった。
そして、摘便のための最後の入院の前、そして特に亡くなる2日前の退院から後は、一日に数回、一瞬だけ意識や精気が蘇った目をすることがあるだけになった。
ひたすらに「ぼーっ」としているのを見て、精神活動が停止しかけているんだなと、人間って最期はこうなっちゃうのかと、否定的に感じたりした。

でも、そうじゃないんだなと‥‥
ひょっとすると、すべての煩悩から離れて、穏やかな優しい一番居心地のいい時間だったのかなと‥‥

大相撲、春場所が始まったな、医者の言うことがホントなら場所終わりまでは無理でも中日くらいまでは見れたのかもしれないよなぁなんて、仕事の合間にブツブツ独り言を言ってみた。

そうしたら、ふっと、そんなことを思った。

 色不異空 空不異色

多分‥‥

 生不異死 死不異生

寝床2009/02/24 02:45

昨夜の寝床は、床に今は使っていない炬燵用の毛布を敷き、その上に母が生前に使っていた電気敷布。掛けるのは夏用の薄がけと毛布1枚というものでした。
暖かくしてはならない部屋、すぐ隣には大量のドライアイス、窓もあちこちすかして2月の夜の寒気が入ってくる‥‥、お世辞にも寝心地がよいとは言えないものでした。

きょうは、昨夜まで母が使っていた敷き布団を敷き、その上に電気敷布。やはり昨夜まで母にかけられていた厚手の布団と厚手の毛布。
きょうはゆっくり寝られるだろうなと思っていたのですが、次女にさっさと横領されてしまいました。
追いだそうとしても追い出せず‥‥

長女が家にいたら取り合いになったのかもしれませんが、長女は納棺の後、大学のレポートの関係で一回、東北のアパートに戻りました。水曜日の通夜の日にまた帰ってきます。
そんなわけで、今晩は母の横に寝るのは次女となりました。のぞきに行ったら、棺の蓋までずらしていました。

きょうの次女の語録‥‥
「この布団と敷布、汚くない?、ずーっと敷きっぱなしで
 しょ?、おむつ交換もこの上だったんだよね?」
「この前、入院した時に徹底的に干したり洗ったりしたよ
 一昨日、亡くなる直前に吐いた血は、ほらほら、ここに
 滲みてるけど‥‥」
「なら、ちょっと臭うような気もするけど、まぁ、いいか」

「きみとお姉ちゃんは顔だけじゃなくて性格まで似ている。
 泣きそうになると、なんだかんだ理由つけて部屋から出
 て行ってこそこそと一人で泣く。もっと堂々と泣けばい
 いのに‥‥、ったく、カッコつけちゃってさ(笑)」

切ないけれど優しい‥‥
哀しいけれど暖かい‥‥

お袋さん‥‥、あんたきっと幸せ者だよ
そういうえば、あなたが下の孫と一緒の部屋に寝るのは、何年も前、あいつの誕生日に旅行に連れて行ってくれた時以来だよね‥‥

棺に収めて2009/02/23 19:50

レンタルの酸素吸入器の返却の連絡をしようと部屋に入った。
吸入器の上に貼ってある連絡先を記したシールの電話番号を見るために。
そのことだけしか頭になく、ふっとドアをあけた。

布をかけた棺がベッドの上に‥‥
予想していない光景だった。
ドライアイスを抱かされて異様に盛り上がってはいるものの、今朝までと同じようにベッドの上に横たわり、布団がかけられた母がいるような気がしていた。

暖かく息をしている母ではなく、冷やされて組んだ手や耳が凍っている母が寝ていることにさえまだ慣れていないのに。
慣れる前に、儀式はまた一つ進んだ。

病のためにむくみ膨れた手。
今朝は押すと、シャリシャリと音がするのではないかというような感覚だった。
棺に新しいドライアイスと共に入って、もし棺をあけて今また触れるなら、今朝よりももっと冷たくなって固く凍っているのだろうと思う。

朝近くに寝る時にシャリシャリとした手に触れ、固く凍り付いた耳に触れ、耳についた霜を手で溶かした時に、なにか一つ、心の中が納得した気がした。
けれど、納得してはいなかったみたいだ。

もう二晩家にいて、そして通夜を過ごす寺に移る。
昨夜は布団に寝る最後の夜だから‥‥そう思って横の床に毛布を延べて寝た。
あと二晩、寝る時は横に行こうかね‥‥

でもね、スカイプを繋ぐ気にはなれないんだ。
見えるのは棺だけなんだもん‥‥

同居ということもあるかもしれないけれど、二人目の親を亡くすというのが、こんなに寂しいこととは知らなかったよ。

スカイプに映る2009/02/22 02:37

スカイプに
今宵も映る隣室の
眠るが如き
母を見つめる

明後日
棺に収める時までは
このまま繋ぎ
仕事をしよう


3年間を越える母の闘病に終止符が打たれました。
12月はじめから、仕事をしながら隣室の母とスカイプを繋ぐようにしていました。僕は自宅で仕事をしているのですが、少しでも寂しくならないように、また痛みを訴えた時に鎮痛剤を飲ませたりするのによいと思い、母の部屋に置いてあるノートパソコンにスカイプをインストールしました。
そして年が明けてからは、なかなか思うように時間を取れないながらも仕事を少しでも進めながら、意識の混濁が進む母に気を配るための必須手段になりました。些細なことで呼び出され、仕事に集中していた気持ちが途切れてしまい、思わず顔や声色に出してしまったことも何回もありました。

12月上旬を最後として、1年近くにわたって続けてきた2週間で5日、あるいは3週間で5日、入院しての抗癌剤の治療も中止し、それ以降はペインコントロールのみとなりました。
2月14日、摘便のため救急車で入院。血液中の酸素濃度が低いため酸素吸入開始。自宅で酸素吸入が出来るようにするための手配と往診の医師の確保など段取りを付けるのに数日かかりました。
17日には「きょう帰れるんでしょう?」「酸素の手配とかお医者さんの手配しているから明後日まで待ってね」という僕との会話。
18日には妹に対しても「きょう帰れるんでしょう?」と、同様の会話。
そして19日に民救で帰宅。
18日に医師に「急変はあり得ますが桜が見られるまで行けるといいですね」と言われ、19日、20日とも量は多くないものの食事は普通に摂ることができ、合間合間にプリンやシュークリームを口元に運び食べさせることも出来ました。

21日は、未明からいつもよりも痛がっていることがやや多いような気がしたので、少し早めの朝5時半過ぎに12時間おき服用する鎮痛剤を中心とした薬を飲ませ、8時に出かけるために起きてきた家族に後を託して僕は眠りました。
その後、いつものように僕が眠っている9時に介護士さんが来ました。彼の呼びかけに対しては、かなり意識の混濁はあるものの普通に目をあけ反応したそうです。
そして母は目をつむり眠り、小半時を過ぎて咳払いをしたような音がしたので母の目が覚めたと思った彼が、おむつの交換の用意をして声をかけた時、横向きになって眠っていた母はかなり大量の黒いものが沢山まじったものを嘔吐していたのを発見したそうです。
その時点で呼吸がないように見え、すぐに僕を呼びに来てくれたのが、おそらく9時50分すぎ。珍しく穏やかな夢を見ていた僕がふと目を覚まし携帯で時刻を見たのが9時45分、その直後、まどろみに落ちようとしている時だった筈です。
すぐに母の部屋に行きましたが、既に脈は触れず、口の中の嘔吐物は手で掻き出しましたが背中を叩いても呼びかけてもまったく反応はありません。

往診の医師に電話をし、2階で眠る次女を起こしました。
跳ね起きたきた次女が「だんだん身体が冷えていくね」と言いながら、何回か母の頬に触れた次女が「さっきより暖かくなっていない?」と言ったので、もし蘇生する可能性があるなら救急車とも思い、目を指であけて懐中電灯で照らしてみましたが瞳孔の収縮はなし。

間もなく到着した往診の医師の宣告が10時23分。
藻掻いた形跡もなく苦悶の表情もなく、いつもの寝顔でしたから、吐くのとほぼ同時に心肺が停止したか、仮に吐いたものが気管を塞いだにしても目を覚ますことなくそのまま旅立ったと、また嘔吐したと思われる時刻と脈が触れないのを確認した時刻、瞳孔を見た時刻を考えて救急車を呼んでも延命は不可能であったと、さらには帰宅をあれだけ望んだのですから19日に連れ帰ってよかったと、信じたいと思います。

19年前に亡くなった自然科学者だった父は、母が病理解剖を許諾したため棺に入って帰宅しました。
その翌年、さらにその2年後に続けて亡くなった叔父と祖母は、自宅で棺に収めました。
棺に親族で収めた時、違う世界へ行ったのだなと、はっきり境界線が引かれたのだなと感じたのを覚えています。

明後日23日の午前、納棺です。
それまでは、今まで通り、24時間スカイプを繋いだままに、違う部屋にいてもPCの前にいる僕を、母がいつも見ることが出来るようにしておきたいと思います。


今朝、薬飲ませた時に怒らなければよかったな‥‥
徐放鎮痛剤のオキシコンチンは噛んではいけないのです。でも意識が混濁した母は薬をガリガリと噛む。なのでまず胃薬や腸の働きをよくする薬、利尿剤、別の種類の鎮痛薬などをまずは2回にわけて飲ませて、ガリガリ噛んだ所で「噛まないで飲む!」と言ってきかせる作戦だったのだけれど、2回目もガリガリ。
「だめでしょ〜!」
って大きな声で言ってしまいました。オキシコンチンは噛まずに飲んだのだけれど、大きな声を出さなければよかったなと。
それから、昨夜も何回か様子を見に行ったり呼ばれて行きはしたものの、「桜を見られるかどうか」と思っていたし、だから「もう少しここにいて」と言う母を「仕事しなくちゃならないんだよ」と言って、部屋に一人にしてしまったのが心残りです。

ごめんね‥‥

覚え書き2008/10/06 07:48

母、1933年生まれ、75才

2006年1月はじめ
旅行先の下田で腸閉塞を発症、下田の病院に入院。
イレウス管の挿入に失敗数度、あまりの苦痛にイレウス管を拒絶。
閉塞がややよくなったり悪くなったりしながら東京の病院に転院。
イレウス管の挿入を頑なに拒否したため、やむなく緊急手術で開腹、人工肛門形成。

下田の病院にて点滴を止めた事を原因として、腎機能低下および下肢静脈血栓。
腎機能はきわどく回復し人工透析は回避。
転院先の病院で「あちらの病院で撮影したCTはあまりにpoorなため使い物になりません」と言われる。

2006年1月30日
腸閉塞の圧力によって拡張した大腸が元に戻るのを待って、上行結腸部の大腸癌切除、人工肛門閉鎖。上行結腸の大半と横行結腸、浸潤していた腹膜の一部を切除、リンパの廓清。

2007年11月
マーカー値の上昇、およびMRIで再発が確認される。
化学療法の開始。

2008年1月
薬剤を変える。以降、隔週で6日間の入院。

2008年10月5日
妹と病院に呼ばれる。

 現治療も著功しているとは言い難い。
 他の薬剤は血栓、脳動脈瘤、腹水の存在があり使用するにはリスクが
 高すぎる。
 しかし、現治療を行わない場合は進行が早くなると考える。

 今後起こりうる病態
 ・多臓器(肝肺脳など)への転移(明らかな転移は現在なし)
 ・播種による腸管運動障害→腸閉塞
 ・腹水貯留による腹部膨張
 ・大網播種転移病巣増大による腹部膨張
 ・皮膚直接浸潤
 ・予期しない急変状態も十分あり得る

主治医の経験から、余命はどれくらいかと尋ねる。3ヶ月と思って半年ということもあるし、逆に1ヶ月ということもあるのは承知の上で、と。
正月を迎えられればよいと思う、とのこと。

元々が我が侭な人ではあるけれど、再び腸閉塞を起こした場合、イレウス管を入れることを受け入れるだろうか。
おそらくは、下田での施術が未熟であったためとは思われるけれど、非常に嫌がるものとは思う。
イレウスがよくならない場合は、おそらく最期まで入院となる。この時点で積極的な治療は中止して貰うのがよいだろうと妹と話す。

というわけで、東北大会の音源‥‥2006/11/21 15:20

こっそりアップです(笑)

   課題曲

   自由曲

よろしければ‥‥どうぞ 照

東北大会の音源が来た〜2006/11/21 14:28

副団長が送ってくれた東北大会CDを聴きながら‥‥

ウインド、いい演奏じゃん(笑)
ん、でも、やっぱり4番手かなぁ‥‥3位の秋吹と少し差があって、いわきと僅差だったのは、こうして聴いてもそう思うな。
それから同じ青森県の下北吹奏楽団、人数少ないのに健闘です。

今年はウインドにとって一番苦手なタイプの課題曲を選曲したかもしれない。
細かい指回し、そしてTempoキープ、微妙なタイミングでしっかり突っ込む、等々。
最後まで練習しきれなかった部分がしっかり出ていたし、しっかり突っ込みきれなかった所も。
音から次の音にレガートで進む時に間の音、雑音が聞こえたり、ハイトーンで張る時に音色感が失われたり‥‥以上、特に木管(笑)
とは言ってもやっぱり去年とは違う。全体にピッチもよくなったし、直管の音が直管らしい音になったなぁ。
課題曲、たぶん、一番、印象的な演奏(つまりドラマティックな構成)を作れない曲だったかもしれない。大きなうねりを作ることの出来る曲ではなかったし、一番聴きごたえのあるのは3番だったかな。
そういう意味で、課題曲の選曲、失敗だったかもしれない。
でも、苦手に挑んで克服していった過程、得たもの、大きかったと思う。
たぶん、これは来年に、コンクールだけではなく演奏会にも、毎回の練習にも繋がる筈。
今まで苦労してきた部分、クリアするコツをきっと掴めただろうから。

それと、こうやって聴くと、課題曲、もうちょっと遅くてもよかったかもしれない。
木管の音の密度が他の団体に比べてやや薄く感じるのは抜きすぎか、それともこの曲が要求しているのか‥‥今更、考えても遅いのけれど(汗)

自由曲は‥‥、自作自演だし、なんとも言いようがないけれど、最後、「行け〜〜!!!」って部分で行ききれなかったような気もする。
毎回、ずっと練習していると、フォルテの部分がうるさく聞こえたり、フォルテの部分で音色やニュアンスが一辺倒と思う部分もあるけれど、持続って大事だなぁと。
お客さん、審査員は1回しか聴かないのだし。
課題曲と自由曲で戦略をかえたり、あるいは課題曲だけ考えてもたくさんの所がやるのか、あまりその日演奏されないのか、作戦が違ってもいいのかもしれない。
ちょっと姑息で、本当はそういうもんじゃないんだろうけど。

これからの課題は‥‥
木管、音の密度を上げましょ、素早く正確な指回しと高音を突っ張る時も音色感が損なわれないように、サックスはセクションとしてもっと団結を(笑)
金管はこの調子で、もうちょっと立ち上がりを早く、それからばてないようなペース配分と体力?
パーカッションは、とにかく人数を‥‥あと3人くらいは絶対にいるんだよね(大粒涙)

それから中低音、ユーフォがあと2人、テューバも2人(泣)

全体にやっぱり精一杯になっちゃうのは人数もあるだろうなぁ‥‥
四十七士で70人バンドに対抗するのは苦しいっちゃ苦しい。某審査員が「あとは人数」って開口一番言い切ったけど‥‥わかってるわい(汗)
バンドの核、サウンドが定まってきたから、新しい人が入ってもきっと崩れないで行けるって信じる。
演奏会にしても、依頼演奏にしても、みんなギリギリのスケジュール、無理をしている部分がたくさんあるのも分かってはいるつもり。
人数が多くなれば、そういう負担もある程度は軽減できると思うし。

というわけで‥‥
一緒に演奏する仲間、大々募集です(笑)
  もちろん、全パート!

  かなりブランクあっても大丈夫
  ブランクなしとか、短いブランクで入ってくる人の方が
  少ないんです

   とりあえず、忘年会から^^;;