スカイプに映る2009/02/22 02:37

スカイプに
今宵も映る隣室の
眠るが如き
母を見つめる

明後日
棺に収める時までは
このまま繋ぎ
仕事をしよう


3年間を越える母の闘病に終止符が打たれました。
12月はじめから、仕事をしながら隣室の母とスカイプを繋ぐようにしていました。僕は自宅で仕事をしているのですが、少しでも寂しくならないように、また痛みを訴えた時に鎮痛剤を飲ませたりするのによいと思い、母の部屋に置いてあるノートパソコンにスカイプをインストールしました。
そして年が明けてからは、なかなか思うように時間を取れないながらも仕事を少しでも進めながら、意識の混濁が進む母に気を配るための必須手段になりました。些細なことで呼び出され、仕事に集中していた気持ちが途切れてしまい、思わず顔や声色に出してしまったことも何回もありました。

12月上旬を最後として、1年近くにわたって続けてきた2週間で5日、あるいは3週間で5日、入院しての抗癌剤の治療も中止し、それ以降はペインコントロールのみとなりました。
2月14日、摘便のため救急車で入院。血液中の酸素濃度が低いため酸素吸入開始。自宅で酸素吸入が出来るようにするための手配と往診の医師の確保など段取りを付けるのに数日かかりました。
17日には「きょう帰れるんでしょう?」「酸素の手配とかお医者さんの手配しているから明後日まで待ってね」という僕との会話。
18日には妹に対しても「きょう帰れるんでしょう?」と、同様の会話。
そして19日に民救で帰宅。
18日に医師に「急変はあり得ますが桜が見られるまで行けるといいですね」と言われ、19日、20日とも量は多くないものの食事は普通に摂ることができ、合間合間にプリンやシュークリームを口元に運び食べさせることも出来ました。

21日は、未明からいつもよりも痛がっていることがやや多いような気がしたので、少し早めの朝5時半過ぎに12時間おき服用する鎮痛剤を中心とした薬を飲ませ、8時に出かけるために起きてきた家族に後を託して僕は眠りました。
その後、いつものように僕が眠っている9時に介護士さんが来ました。彼の呼びかけに対しては、かなり意識の混濁はあるものの普通に目をあけ反応したそうです。
そして母は目をつむり眠り、小半時を過ぎて咳払いをしたような音がしたので母の目が覚めたと思った彼が、おむつの交換の用意をして声をかけた時、横向きになって眠っていた母はかなり大量の黒いものが沢山まじったものを嘔吐していたのを発見したそうです。
その時点で呼吸がないように見え、すぐに僕を呼びに来てくれたのが、おそらく9時50分すぎ。珍しく穏やかな夢を見ていた僕がふと目を覚まし携帯で時刻を見たのが9時45分、その直後、まどろみに落ちようとしている時だった筈です。
すぐに母の部屋に行きましたが、既に脈は触れず、口の中の嘔吐物は手で掻き出しましたが背中を叩いても呼びかけてもまったく反応はありません。

往診の医師に電話をし、2階で眠る次女を起こしました。
跳ね起きたきた次女が「だんだん身体が冷えていくね」と言いながら、何回か母の頬に触れた次女が「さっきより暖かくなっていない?」と言ったので、もし蘇生する可能性があるなら救急車とも思い、目を指であけて懐中電灯で照らしてみましたが瞳孔の収縮はなし。

間もなく到着した往診の医師の宣告が10時23分。
藻掻いた形跡もなく苦悶の表情もなく、いつもの寝顔でしたから、吐くのとほぼ同時に心肺が停止したか、仮に吐いたものが気管を塞いだにしても目を覚ますことなくそのまま旅立ったと、また嘔吐したと思われる時刻と脈が触れないのを確認した時刻、瞳孔を見た時刻を考えて救急車を呼んでも延命は不可能であったと、さらには帰宅をあれだけ望んだのですから19日に連れ帰ってよかったと、信じたいと思います。

19年前に亡くなった自然科学者だった父は、母が病理解剖を許諾したため棺に入って帰宅しました。
その翌年、さらにその2年後に続けて亡くなった叔父と祖母は、自宅で棺に収めました。
棺に親族で収めた時、違う世界へ行ったのだなと、はっきり境界線が引かれたのだなと感じたのを覚えています。

明後日23日の午前、納棺です。
それまでは、今まで通り、24時間スカイプを繋いだままに、違う部屋にいてもPCの前にいる僕を、母がいつも見ることが出来るようにしておきたいと思います。


今朝、薬飲ませた時に怒らなければよかったな‥‥
徐放鎮痛剤のオキシコンチンは噛んではいけないのです。でも意識が混濁した母は薬をガリガリと噛む。なのでまず胃薬や腸の働きをよくする薬、利尿剤、別の種類の鎮痛薬などをまずは2回にわけて飲ませて、ガリガリ噛んだ所で「噛まないで飲む!」と言ってきかせる作戦だったのだけれど、2回目もガリガリ。
「だめでしょ〜!」
って大きな声で言ってしまいました。オキシコンチンは噛まずに飲んだのだけれど、大きな声を出さなければよかったなと。
それから、昨夜も何回か様子を見に行ったり呼ばれて行きはしたものの、「桜を見られるかどうか」と思っていたし、だから「もう少しここにいて」と言う母を「仕事しなくちゃならないんだよ」と言って、部屋に一人にしてしまったのが心残りです。

ごめんね‥‥

棺に収めて2009/02/23 19:50

レンタルの酸素吸入器の返却の連絡をしようと部屋に入った。
吸入器の上に貼ってある連絡先を記したシールの電話番号を見るために。
そのことだけしか頭になく、ふっとドアをあけた。

布をかけた棺がベッドの上に‥‥
予想していない光景だった。
ドライアイスを抱かされて異様に盛り上がってはいるものの、今朝までと同じようにベッドの上に横たわり、布団がかけられた母がいるような気がしていた。

暖かく息をしている母ではなく、冷やされて組んだ手や耳が凍っている母が寝ていることにさえまだ慣れていないのに。
慣れる前に、儀式はまた一つ進んだ。

病のためにむくみ膨れた手。
今朝は押すと、シャリシャリと音がするのではないかというような感覚だった。
棺に新しいドライアイスと共に入って、もし棺をあけて今また触れるなら、今朝よりももっと冷たくなって固く凍っているのだろうと思う。

朝近くに寝る時にシャリシャリとした手に触れ、固く凍り付いた耳に触れ、耳についた霜を手で溶かした時に、なにか一つ、心の中が納得した気がした。
けれど、納得してはいなかったみたいだ。

もう二晩家にいて、そして通夜を過ごす寺に移る。
昨夜は布団に寝る最後の夜だから‥‥そう思って横の床に毛布を延べて寝た。
あと二晩、寝る時は横に行こうかね‥‥

でもね、スカイプを繋ぐ気にはなれないんだ。
見えるのは棺だけなんだもん‥‥

同居ということもあるかもしれないけれど、二人目の親を亡くすというのが、こんなに寂しいこととは知らなかったよ。

寝床2009/02/24 02:45

昨夜の寝床は、床に今は使っていない炬燵用の毛布を敷き、その上に母が生前に使っていた電気敷布。掛けるのは夏用の薄がけと毛布1枚というものでした。
暖かくしてはならない部屋、すぐ隣には大量のドライアイス、窓もあちこちすかして2月の夜の寒気が入ってくる‥‥、お世辞にも寝心地がよいとは言えないものでした。

きょうは、昨夜まで母が使っていた敷き布団を敷き、その上に電気敷布。やはり昨夜まで母にかけられていた厚手の布団と厚手の毛布。
きょうはゆっくり寝られるだろうなと思っていたのですが、次女にさっさと横領されてしまいました。
追いだそうとしても追い出せず‥‥

長女が家にいたら取り合いになったのかもしれませんが、長女は納棺の後、大学のレポートの関係で一回、東北のアパートに戻りました。水曜日の通夜の日にまた帰ってきます。
そんなわけで、今晩は母の横に寝るのは次女となりました。のぞきに行ったら、棺の蓋までずらしていました。

きょうの次女の語録‥‥
「この布団と敷布、汚くない?、ずーっと敷きっぱなしで
 しょ?、おむつ交換もこの上だったんだよね?」
「この前、入院した時に徹底的に干したり洗ったりしたよ
 一昨日、亡くなる直前に吐いた血は、ほらほら、ここに
 滲みてるけど‥‥」
「なら、ちょっと臭うような気もするけど、まぁ、いいか」

「きみとお姉ちゃんは顔だけじゃなくて性格まで似ている。
 泣きそうになると、なんだかんだ理由つけて部屋から出
 て行ってこそこそと一人で泣く。もっと堂々と泣けばい
 いのに‥‥、ったく、カッコつけちゃってさ(笑)」

切ないけれど優しい‥‥
哀しいけれど暖かい‥‥

お袋さん‥‥、あんたきっと幸せ者だよ
そういうえば、あなたが下の孫と一緒の部屋に寝るのは、何年も前、あいつの誕生日に旅行に連れて行ってくれた時以来だよね‥‥